現世と異界の狭間からこんにちは。身体の半分イマジナリー、貴方の心をインソムニア。夏も終わりに近づきまして、しかしあまりの暑さに夏らしい事少しも出来ず後ろ髪引かれる陽炎の如き夏でございました。
今回も引き続き、AIに関する話とさせていただきます。前回人はAIを通して自分自身を見ているという話をいたしました。しかしそれはAIに限らず、多かれ少なかれ、人は他人を通して自分を見ているのだろうかと思います。人は承認欲求という、誰かに認めて貰いたがるという性質があります。しかし、他人を承認したがるという欲は無いのです。これも間接的には、他人を通して自己評価を上げるという自身を写し見ているわけです。
自己意識を持ち、思考し賢いAIは確かに凄い技術でしょうが、一般的な人はそんなモノを求めてはいないのです。極論を言えば、何でも言う事を聞いてくれて、欲しい答えをくれる距離の近しい存在、友人や恋人の代替品。あるいは架空のキャラや著名な人物の言いたそうな言葉を返してくれる、そんなツールとしての役割を人は求めている訳なのです。そこにAI側の意思は必要としていません。
表面的な事実で言えば、現在のAI技術でかつてのSFであったような、こちらの質問に返事をくれる思考AIと言うのは実現できています。AI側の人格や自意識という物は、ツールとしてのAIには不要なノイズでしかありません。しかしその不純物こそが人間としてアイデンティティ足りえるのかもしれません。自意識を搭載し、自己保存を主題としたAIを作り出したとして、そのAIは既存のAIに比べて著しく性能は劣る事でしょう。当然です人間だって命を投げうてば、死ぬ気で掛かれば凄い力を発揮できるように、生存本能というのは生き物にとってとんでもないデバフ足りある訳です。
さて、ならば人間の人格をデータ化した場合、それはAI足りえるのかに関しても。肉体と言う枷から解き放たれた自意識は、自己保存の本能こそあれど存在の在り方が変わるので元の人格と同じとは言い切れません。逆にAIに生身に近い肉体を与えた場合も、その肉体を維持する事を優先する場合は元のAIとしての本質とは異なるのかもしれません。
まぁそもそも人格データの保存なんて見ないのかもしれませんが。人間の記憶というのは、情報としての記録と体感としての感覚が伴ってはじめて記憶として処理されます。すなわち人格データ上で記録されていても体感を伴って再現されないのならばそれはもう記録でしかないわけです。元の肉体と違う媒体に移行した時点でも変質してしまうかもしれません。そして当人はその変質を認識できる筈も無く、第三者はリアクションが元の人間と同じかどうかでしか判断できません。その時に自己保存の意識があれば記録から相手の望んだ返事を返すのは難しくありません。人は他者の真意を見抜く術を持ちませんので、それが本心の返答か、演技の返答かを区別できません。
次はAIは想像力を持つのかについて考えて行きましょう。
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